• トップ
  • >
  • 楷定寺由来
  • >
  • 楷定寺沿革

 江戸時代中期の元文年間(一七三六〜一七四〇年)陽柳法師により創建せれたと伝えられています。現在の本堂は、江戸時代後期の文化十年(一八一三年)に建立されました。本尊の阿弥陀如来立像は、江戸時代に制作され、高さ六一・五㎝の寄木造りです。なお当寺には江戸時代後期の天明二年(一七八二年)に起こった農民一揆の「千原騒動」の指導者、土井忠兵衛の墓があります。墓には忠兵衛の威徳を讃え、「その真心は末の世のいしふみに咲く、うもれ木の花」という詩が刻まれています。毎年一月九日には忠兵衛を偲んで法要を行っています。

■富木村には天正年間(一五七三~九一)から一向宗の総道場があった。

 泉州地域の一向宗は、蓮如が堺に在所しているとき和泉各郡及び紀伊に布教活動し、信者を増やした。富木村の一部村民もその時点で一向宗信者となり、活動の場として道場を設置したと考えられる。蓮如の堺在所は天正より数十年前であり、天正年間以前は地域の有力者の住居の一部を道場として使用し、天正年間に総道場として現在の楷定寺の場所に独立建物を建てたものと考えられる。
 

■元禄十六年(一七〇三)西本願寺より寺号「楷定寺」いただく。

「楷定寺」は、富木村の総道場に寺号と寺宝を下賜されて開基。
 寺宝は、①阿弥陀仏立像一体 ②太子七高僧御影一幅 ③教興院様御影(十三世良如一幅 ④御開山様御影一幅
 

■享保五年(一七二〇)楷定寺の古建物が大破したので建て替え。

 建物が古くなり大破したため、建物を取り壊し、元の場所に建てることとなる。
 本堂棟札には、享保五年二月釘始め、三月下旬棟上げとあり本堂完成まで数年を要していると考えられる。完成は元文年間(一七三六~四〇)。
 

■宝暦十年(一七八一)庫裏が大破したため建て替え実施。

・本堂建て替え (桁行六間×簗三間 南方五尺の庇及び二間の履脱 北方九尺の庇 瓦葺き。これは享保年間に建てた建物と同じ内容であり現在の建物も同じ内容である)
・薬医門新設 梁一間×桁行九尺
・庫裏増建築 現在の庫裏の北方に簗間三間×桁行四間半 瓦葺き 新設
・堂及び薬医門は現在の楷定寺の建物と同じ。
・庫裏の一部は建て替えられている。北方の庫裏は当時のまま。
 

■文化十年(一八一三)本堂及び庫裏の建て替え及び薬医門の新設願い提出。

 現在の本堂及び薬医門及び北方の庫裏は文政十年完成の建物で、建築後一九七年を経過した建物である。 途中一部の改修を経て現在に至る。しかしながら躯体の経年劣化、耐震強度などを鑑みるに、建て替えが望まれている。
 
※この略歴作成は、楷定寺世話人皆様、殊に北口茂基様にご協力いただきました。
 

土井忠兵衛
没年:天明4.2.8(1784.3.28)
生年:生年不詳
 

天明2(1782)年の泉州千原騒動の首謀者のひとり。和泉国大鳥郡富木村(大阪府高石市)の生まれ。天明2年7月、凶作のために年貢減免を求めて新家村勘七、土生村了意らと協議して一橋領地の村々に集会を呼びかけて決起し、同領の掛屋を兼ねていた千原村庄屋川上左助宅を打ちこわしたが、8月堺奉行に捕らえられた。翌3年9月遠島処分を受け、4年4月に遠島される予定であったが、その前に大坂入牢中に死去した。楷定寺の資料によると遺骸は村に帰らなかったと伝える。明治37(1904)年、村人によって建碑され、法要が営まれた。

<参考文献>森杉夫「千原騒動について」(『高石市郷土史研究紀要』4,5号)


 
 

 

 
                                                                                                             ページトップへ